V ビザ|決済手数料の値段は誰が決めているか
ビザの四半期決済高が初めて4兆ドルを超えた。その裏で進むBioCatch買収24億ドルと、司法省訴訟・加盟店訴訟が手数料率を外側から決めている構造を確認し、通行料を取る側かどうかという基準でこの会社を読み直した。
四半期の決済高が、初めて4兆ドルを超えた。それでもこの会社は、自分の商品の値段を自分で決められない。
8月3日、ビザはイスラエルのBioCatchという企業を24億ドルの現金で買うと発表した。日本の投資家でこの名前を知っている人は多くないはずだ。キーストロークの間隔、画面を触る指の圧力、端末の持ち方——そういう挙動から、ログイン情報が正しくても本人ではない誰かを見抜く技術を売っている会社である。2025年の年間経常収益は1億8,500万ドル(Biometric Update報道)。つまりビザは、売上のおよそ13年分を払った。
なぜ決済網の会社が、決済の手前にある「その人が本人かどうか」にこれだけ払うのか。ここから話を始めたい。
4兆ドルを通した四半期に、2,600人を削減した
まず直近の数字を置く。7月28日に出た2026年度第3四半期(4〜6月期)は、純収益115億ドルで前年同期比14%増、非GAAPベースの一株利益は3.32ドルで11%増。四半期の決済高が同社の歴史で初めて4兆ドルを超え、為替影響を除いて10%伸びた。処理件数717億件。米国の決済高の伸び10%は、パンデミック後の反動期を除けば2019年度以来の速さだという(同社IR資料)。
数字だけ見れば文句のつけようがない。ところが同じ日、ビザは全従業員の約7%にあたる2,600人の削減を発表し、5億6,300万ドルの退職関連費用を計上した。切られたのは主に技術と製品の部門である。営業費用は17〜19%増え、収益の伸びを上回った。この会社が長年評価されてきた「規模が増えるほど利益率が上がる」構図が、この四半期に限っては逆に働いている。
好調な決算と大規模な人員削減が同じ日に出るとき、企業は自分の稼ぎ方が変わりつつあることを認めている。
ビザ自身、削減で浮いた資金をAI・エージェント決済・ステーブルコイン関連に振り向けると説明した。
BioCatchの24億ドルが示す、商品の移動
ビザの本業は、加盟店とカード発行銀行のあいだで取引を通し、その通行に対して料金を取ることだ。だが手数料率そのものは、後述するとおり自分では動かせない。だから伸ばせるのは、料率ではなく「料金所で一緒に売るもの」になる。
同社が付加価値サービスと呼ぶ領域は、第3四半期に為替影響を除いて34%増の38億ドル、収益の約3割を占めるところまで来た。ただしこの伸びの相当部分はFIFAワールドカップ関連のマーケティング収益で、来年も同じ数字が出る性質のものではない。ここは差し引いて見る必要がある。
その付加価値サービス部門に入るのがBioCatchだ。同社は約350の銀行、7億6,000万人の利用者、月間190億セッションを見ている。ビザの説明によれば、なりすましと詐欺による世界経済の損失は年間1兆ドルを超え、AIがその攻撃を安く速くしている。買うのは技術というより、「誰が本物か」を判定するための行動データの蓄積である。
これが効いてくるのは、人間ではないものが決済を始めるときだ。ビザは6月10日にOpenAIと組み、ChatGPT上でAIエージェントが決済できる仕組みを載せた。Agent Scoreという、エージェントの信頼度を測る仕組みも用意している。エージェントが自分の代わりに買い物をする世界では、カード番号の正しさは何の証明にもならない。指の動きも、そこにはない。判定の材料を持っている者が、その場所の値段を決める。
手数料率を決めているのは、司法省と加盟店の弁護士ではないか
ここが、この会社を見るときの核心だと考えている。
米司法省は2024年9月、ビザがデビットカード網で違法に独占を維持しているとしてニューヨーク南部地区連邦地裁に提訴した。米国法曹協会の解説によれば、この訴訟は2026年に入って係争的な証拠開示段階にあり、事実に関する開示は10月16日で終了予定、専門家証人の開示は2027年4月8日まで続く。政権交代後も司法省は積極的に進める姿勢を示している。求めているのは金銭ではなく、料率や排他契約に手を入れる構造的な救済だ。
これとは別に、加盟店が起こしたスワイプ手数料の集団訴訟がある。300億ドル規模とされた和解案は連邦地裁に却下され、いま再交渉が続いている。さらに、カード発行銀行にビザ・マスターカード以外の選択肢を義務づけるクレジットカード競争法案が、超党派の後押しを受けながら2026年3月の住宅法案への修正案としても通らず、繰り返し不成立になっている。
この三つを並べると、ひとつの事実が見えてくる。ビザの手数料率は、ビザの経営判断ではなく、判事と議会と加盟店側の弁護士が決めている。
この連載で扱ってきたTSMCやASMLは、値段を自分で決められる側だった。作れる会社が世界に一つしかないから、値上げが通る。ビザは通す量では圧倒的だが、通行料そのものには外から手が伸びる。同じ「料金所」でも、料金表を書いているのが自分か他人かで、意味はまるで違う。
ステーブルコインは迂回路になったのか、支線になったのか
一年前、この会社に対する最大の疑問は「ステーブルコインと銀行口座直結の決済に迂回されて終わるのではないか」だった。
いまのところ、そうはなっていない。ビザの決済対応チェーンは9本、ステーブルコイン連動のカードプログラムは160、ステーブルコイン決済は年換算で70億ドル、3か月前から50%以上増えた(Investing.com、6月11日)。ウエスタンユニオンなどがビザ網の上でステーブルコインを動かし始めてもいる。迂回路として使われるのではなく、支線として自分の網に引き込む形になりつつある。
ただし正直に書いておくと、この70億ドルは決済のランレートであって、収益として区分開示された数字ではない。経営陣は自らを「ステーブルコイン基盤と実世界をつなぐ橋渡し」と説明するが、そこから持続的な取り分を得るのか、単に置き換えを遅らせているだけなのかは、まだ決算書の上では判別できない。判別できるようになるまでは、ここを強気の根拠には使えない。
予想PER27.7倍が値付けしているもの
株価は8月12日終値で359.42ドル(Macrotrends)。52週の高値373.97ドル、安値293.89ドル。予想PERは約27.7倍(Seeking Alpha、8月7日時点)で、S&P Globalが集計した40人のアナリストの平均目標株価は413.79ドル、レーティングはStrong Buyに集中している。
この倍率が言っているのは、「訴訟は構造的な救済まで至らず、新しいレールは全部この網の上に乗る」ということだ。どちらかが外れたときに、株価より先に動くのはおそらく倍率のほうである。実際、過去1年の営業成績は上に書いたとおり強かったのに、株価の戻りは限定的だった。市場は業績を評価しつつ、倍率のほうを少しずつ削っている。
通行料を取る側ではある。それでも今回は持ち場が空かない
このポートフォリオでは、その会社が通行料を取る側か、払う側かを最初に見る。ビザは間違いなく取る側だ。誰がどのAIサービスで勝とうが、消費が起きればこの網を通る。売った瞬間に条件が崩れるような話ではない。
それでも今回は組み入れなかった。理由は三つある。手数料率を自分で決められないこと。通行する量が名目消費に連動するため、AIの拡大では太らないこと。そして新しいレールからの取り分が、まだ数字になっていないこと。
もう一つ、正直に書いておくべきことがある。12という枠を動かさないと決めている以上、入れるなら誰かを出さねばならない。いま同じ役割を担っているのは、消耗品で稼ぐ手術ロボットの会社と、代替の効かない航空部品の会社と、肥満症治療薬の会社だ。前の二つは、料金表を自分で書けるという一点でビザを上回る。三つ目は価格決定力が実際に揺らぎ始めているが、数量の伸びが桁違いに大きい。誰も押し出せなかった、というのが結論である。
判断が変わるとすれば、株価が下がったからでも、上がったからでもない。訴訟が構造的な救済を伴わずに片づいたとき。エージェント決済とステーブルコインの取り分が、ランレートではなく四半期の売上として開示され、二期続けて伸びたとき。そのどちらかが起きたら、この文章は書き直すことになる。
24億ドルで買ったのは、詐欺を止める技術ではない。エージェントが人間の代わりに支払いを始める世界で、料金表を自分で書き直すための材料だ。それが値段になって現れるかどうかは、まだ誰も知らない。